瀬長島(瀬長グスク) [瀬長]

更新日:2023年02月01日

説明版がある高台の奥に、広い大きな川と街並みが見える写真
  • 地域:瀬長(せなが、方言名 アンジナ・シナガ)
  • 種類:グスク
  • 状態:瀬長島自体は現存。
    • 文化財説明板(2013年2月設置)
青空の下に、木々に覆われた小さい島が浮かんでいる写真

南側からの遠景

 瀬長島は、豊見城市西岸から沖合約600メートルに浮かぶ周囲約1.5キロメートル、最標高約30メートル、面積約18ヘクタールの島である。戦前まで約30戸が北側平野部(現・野球場一帯)に集落を構え、半農半漁の暮らしを営む有人島であった。

 太古の時代、琉球の国を創ったアマミキヨの子、南海大神加那志が最初にこの島に住み、そこから豊見城の世立てが始まったという豊見城発祥伝説が残る。

 島内にはかつて瀬長グスクがあり、瀬長按司が居住したグスクだったと伝えられている。これについては、琉球王府が1713年に編集した『琉球国由来記』の中で、「瀬長按司ハ王位ノ御婿ニテ…(巻8)」、「往古ハ瀬長按司居住ノ跡アリ…(巻12)」)と記述されている。これまでに中国製青磁や陶器・グスク系土器などが出土している。

 地元では古くから島を別名「アンジナ」と呼んでおり、按司のいる砂島がアジシナシマへ転訛し、それがアンジナになったとも伝えられている。

 1719年(康煕58)に来琉した中国の冊封副使・徐葆光は、瀬長島を訪れた際の様子について、『遊山南記』の中で、美しい砂浜の静けさと大勢の人が雨宿り出来るほどの巨石奇岩の様子など、その変化に富んだ景観を讃えている(『琉球国使略』)。また、昭和11年には沖縄八景の一つに数えられるなど、豊見城を代表する風光明媚な景勝地であった。

 1944年(昭和19)、沖縄戦に伴い住民らに島外退去が命ぜられ、引き続き戦後も島全体が米軍基地として接収されることとなった為、やむなく島民は対岸で集落を構えざるを得なかった。このときの基地建設工事で島は大きく削り取られ、また、島と本島および空港とをつなぐ2本の海中道路が取付けられるなど景観は激しく変貌した。島は、長らく米海軍弾薬貯蔵基地として使用され、1977年(昭和52)には返還された。

 戦前まで島内には、瀬長グスクの遺構を始め、子宝祈願とともに誕生する新生児の性別を占った「子宝岩(イシイリー)」、さらに『琉球国由来記』にも記述のある瀬長ノ嶽など多くの遺跡や拝所、井泉等が残り、信仰の対象として各地から参拝者が訪れていたが、戦後は立入禁止となり遺構の多くが基地建設と同時に破壊され往時の面影はほとんど残されてない。対岸のアカサチ森に遥拝所が建てられ、島内にあった拝所、井泉等が集合移設されている。アンジナムヌメーや浜下りは、瀬長島とゆかりのある行事であり、また、男女の恋愛を題材とした組踊「手水の縁」の一幕も、瀬長島が舞台設定であると言われている。

英訳文

 Senaga Island is located approximately 600 meters off the west coast of Tomigusuku City. The circumference of the island is approximately 1.5 kilometers, the highest altitude is 30 meters, and the island has an area of about 18 hectares. Up until before the war, the island was inhabited with about 30 homes making a settlement in the flat plains in the northern side of the island (where the baseball field is presently located), and the residents made their living with both agriculture and fishing.

 There remains a legend on the origins of Tomigusuku, which tells that in the ancient past, the first to inhabit the island was the child of
Amamikiyo, the goddess who created the Kingdom of Ryukyu, and that is how Tomigusuku began. On the island also in the past was Senaga Gusuku, said to have been the residence of Senaga Aji, the local chieftain.

 The island boasted spectacular scenery, representative of Tomigusuku, and in 1936, it was chosen as one of the eight most scenic locations in southern Okinawa.

 With the dawning of war in 1944 and the ensuing Battle of Okinawa, the residents were ordered off the island. Even after the war, the whole island was requisitioned for a US military base. The residents of the island were forced to form their settlement along the opposite shore from their original homes. When the island was undergoing base construction at this time, the landscape of the island was drastically changed. A large portion of the island was razed, and two roads over the sea were constructed, connecting the island to the main island and to the airport. The island was returned in 1977 after a long period of use by the US forces, as an ammunitions storage base for the US Navy.

 Until before the war, there were numerous ancient remains, places of worship, water wells and springs within the island, all subjects of spiritual beliefs where people from various areas of Okinawa came to pay their respects. However, entry into these sites became prohibited after the war, and many of the cultural heritages were destroyed with the construction of the military base, and little ancient
aspects remain.

 A scene from a Kumiodori play titled Temizu-no En, which is a love story between a man and a woman, is said to be set at Senaga Island.

参考文献

  • 豊見城市教育委員会 2013『瀬長島(瀬長グスク)』文化財説明板
  • 豊見城村村史編纂委員会 1964『豊見城村史』豊見城村役所
  • 豊見城村村史編纂室 1998『豊見城村史 第九巻 文献資料編』豊見城村役所
  • 豊見城村教育委員会 2002『豊見城村の文化財(増補)』豊見城村教育委員会
  • 豊見城市市史編集委員会 民俗編専門部会 2008『豊見城村史 第二巻 民俗編』豊見城市役所
瀬長島(瀬長グスク)の説明図

文化財説明板の文面

本島から大きな橋がかかっていて、島を一周するような大きい道が敷かれている瀬長島を、上の方から撮影した写真

1995年の瀬長島

でこぼこした穴が空いた大きな岩が、海の中に立っている写真

復元された子宝岩(2016年撮影)

石の台座に乗った三つの石碑が、芝生の上に並んで立っている写真

瀬長島にゆかりのある歌碑や記念碑なども建立されている。
左から組踊「手水の縁」歌碑、平敷屋朝敏生誕300年記念顕彰碑、「仲風節」歌碑

車がたくさん停まっている駐車場の奥で、飛行機が飛んでいる写真

那覇空港が目の前であるため、飛行機の離発着が観られる

たくさんの車が走っている道と、たくさんの建物が建っている町の中に、こんもりした木の茂みが見える写真

対岸に見える山は、アカサチ森と呼ばれている。

赤茶色の鳥居の奥に、こんもりした木々と、拝殿が見える写真

戦前瀬長島にあった拝所や井戸などはすべて、対岸のアカサチ森に移設・合祀している。
終戦後に米軍基地の施設となり、島に立ち入れなくなったためであった。
現在でもこの拝所では、アンジナムヌメー(健康祈願・新生児紹介)などの祭祀が行われる場所である。

「ハブ注意!DANGER!」と書かれた看板が草地の中に立っている写真

かつて「トゥイナカンシマ(にわとりの鳴かない島)」と呼ばれていたほど、ハブが多く生息している。
島の緑地帯に入る際や夜の散歩は注意が必要!

地図

より大きな画面で「豊見城市 文化財説明板マップ」を見るには下記リンクから

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関連情報

豊見城市商工観光課 「隣の楽園『瀬長島』」

豊見城市商工観光課 「豊見城空さんぽ 隣の楽園 瀬長島」

作成日

平成29年3月31日

この記事に関するお問い合わせ先

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