隣の楽園 『瀬長島』
瀬長島...
瀬長島は、豊見城発祥の地とされ、歴史的価値、文化的価値、景観的価値も高く、憩いの場として多くの人々が訪れる豊見城の観光スポットです。島は時代の変遷と伴に、ウチナー世からアメリカ世、そしてウチナー世にという沖縄の時間的な欠片をところどころに見ることができる島でもあります。
このページでは、そんな瀬長島を紐解き紹介していきます。
「瀬長島」い・ろ・は
豊見城発祥の地
太古の時代、琉球の国を創ったアマミキヨの子、南海大神加那志が最初にこの島に住み、そこから豊見城の世立てが始まったという豊見城発祥伝説が残る。
美しき島「瀬長島」
瀬長島は、沖縄八景の一つに数えられるなど風光明媚な景勝地であり、かつて、中国の冊封副使・徐葆光が島を訪れた際に、美しい砂浜の静けさと大勢の人が雨宿り出来るほどの巨石奇岩の様子など、その変化に富んだ景観を讃えている。
また、瀬長島がその舞台の一部となっている組踊「手水の縁」においても、冒頭で、瀬長山に花見に出かけた主人公が浜下りでにぎわう情景を見て「世間とよまれる 瀬長山見れば 花や咲き美さ 匂しほらしや」と美しさを述べる台詞もある。
文化財
現在も瀬長島一帯は、文化財として位置づけられている。
戦前まで島内に存在していた文化財は、先の大戦により、その多くが破壊された。戦火を逃れた信仰の対象となっていた拝所などの文化財も、米軍基地として接収された際に対岸の方に集合移設された。瀬長グスクの遺構なども、基地として接収された際に島の上部と同時に削り取られた。その改変に伴って島の標高も現在の約33メートルとなってしまったが、実際は、現在の1.3倍ほど高さがあったのではないかと考えられている。
また、戦後基地として接収された経緯もあり、戦争遺跡としての側面も持ち合わせている。
瀬長グスク
島内には、かつて瀬長グスクと呼ばれたグスクが存在していた。現在では、戦後の混乱などで、城壁などの面影を見ることはできないがグスク系土器のほか中国製青磁や陶器が発見されている。
観光地としての瀬長島
島の返還後、活用の話が浮かんでは消えの繰り返しであったが、一括交付金(沖縄振興特別推進市町村交付金)が創出されたことにより、行政、民間一体となった開発が可能となった。島内には、宿泊施設、温泉施設のほか、野球場、商業施設、遊歩道、展望台などがあり、市内外から多くの人が訪れにぎわいをみせている。
子宝岩(イシイリー)
子宝岩は戦争により破壊され、一括交付金を活用し復元が行われた。復元後は、多くの人が子宝岩に願掛けに訪れ、観光名所として注目を浴びている。
地元では、「イシイリー」と呼ばれ、岩の上部には上下に二つの穴が開いており、何時のころから島内外から人々が訪れ、「子宝に恵まれますように」と祈ったと伝えられている。「男の子」が欲しければ上の穴へ、「女の子」が欲しければ下の穴へ石を投げ入れ、願掛けを行う。
展望広場・遊歩道
島の東側頂上部に駐車場と一帯となった展望広場が整備されており、航空機の離発着を圧巻のスケールで見ることができる。島の海中道路と合わせて、航空機の2大ビュースポットとなっている。
また、島の東西には遊歩道が整備され、散歩やランニングコースとして注目を集めている。
そのほかにも、災害時の避難路として整備された、島を上下に結ぶ連絡橋も歩くことができ、緑豊かな自然の中を散策することが可能である。
自然海浜
島の外周には、ぐるりと道路が取り巻いているがその一歩外には、遠浅の海岸が広がっている。天気の良い日に展望台などから眺めると、海の青と空の青のコントラストが美しい景色が目の前に現れる。また、夕刻にはパノラマ的な情景の美しいサンセットを眺めることができるのも魅力のひとつである。
戦争遺跡
島の外周道路には、50センチメートルぐらいの石柱が並んでいる。これは、米軍基地に接収された際に米軍が建造したもので、今ではレトロな雰囲気を作り出している。
また、島の頂上部付近には、米軍に弾薬庫として利用されていた当時の石垣の壁が見ることができ、アメリカ世の沖縄であったことを物語っている。
これら、戦争が残した負の遺産も現在の瀬長島を形作るひとつとなっている。
スポーツ・レジャー
島には、4面の野球場も整備されており、休日には老いも若きもプレーを楽しんでいる。海上では、遠浅な利点を活かしたウィンドサーフィンなども行われている。
商業施設
島の西側には、ホテルや温泉、レストラン、南イタリアを思わせる商業施設が立地し、多くの旅行者が訪れている。
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更新日:2023年02月01日