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ジョン万次郎と翁長高安家 [翁長]

更新日:2017年11月20日


 

 

地域:翁長(おなが、方言名 ウナガ)
種類:記念碑
状態:現物があります。記念碑は見学できます。屋敷は個人住宅ですのでご遠慮ください。
文化財説明板(2014年1月設置)

 


現在も残るジョン万次郎が飛び越えたと伝わるヒンプン

  


 

 ジョン万次郎(中浜万次郎)は1827年、土佐藩中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市)に貧しい漁師の子として生まれた。1841年、14歳のとき出漁中に遭難。仲間とともに無人島に漂着後、アメリカの捕鯨船に救助され米国マサチューセッツ州フェアへブンに渡った。
 
 渡米後の万次郎は、救助したホイットフィールド船長にその才覚を見出され英語を始め航海術や造船、測量技術などを学び、捕鯨船の航海士や副船長として世界の海を駆け巡るなど異郷の地で約10年過ごしたが、望郷の念にかられ遂に帰国を決意した。しかし、遭難が原因であったとはいえ、鎖国下の日本への帰国は命がけの決断であった。
 
  1851年旧暦1月、万次郎らは琉球国摩文仁間切小渡海岸(現在の糸満市大度)に上陸。取り調べのため最初、那覇に向け護送されるが、那覇に居留していた外国人を避けるため、手前で引き返し豊見城間切翁長村(現在の豊見城市字翁長)の高安家に留め置かれることとなった。
 
 翁長村滞在中は、監視は付いたが集落内を出歩くことは自由で、ゆるやかな軟禁状態だったようである。社交性に富み好奇心旺盛な万次郎は、高安家から度々外出しては集落の人々と交流し、六月ウマチーには、ンマイー(馬場)で綱引きにも参加している。また、言語能力に長けた万次郎は、地元の人々とのこうした交流を通じ半年間の滞在で沖縄方言も理解したという。薩摩に送られるため琉球を離れるとき、世話になった高安家の娘らに万次郎は方言で別れを告げたというエピソードも残されている。
 
 その後の万次郎は、咸臨丸で太平洋を横断し、日米修好条約調印使節団の通訳官として勝海舟や福沢諭吉とともに訪米するなど、幕末から明治にかけ開国に向かう動乱の時代に、米国での経験から得た貴重な知識や技術、西洋事情や文化を伝えるなど日米の橋渡し役として多方面で活躍した。
 
 琉球滞在中に万次郎を温かくもてなした高安家と中浜万次郎家とはその後も代々交流が続き、1994年(平成6)3月には、ジョン万次郎がとりもつ縁で豊見城市と万次郎の出身地・土佐清水市との間で姉妹都市盟約が締結された。
 
英訳文
 John Manjiro (Manjiro Nakahama) was born in 1827, in Nakanohama Village, Tosa Clan (today’s Tosa-Shimizu City, Kochi Prefecture), as a son of a poor fisherman. In 1841, at age 14, Manjiro was shipwrecked while fishing at sea, and landed at an uninhabited island where he was rescued by an American whaling ship and brought to Fairhaven, Massachusetts, USA.
 
 After arriving in the United States, Manjiro was recognized for his intelligence by Captain Whitfield, his rescuer, and went on to study English as well as navigation, shipbuilding and surveying skills. He served as the First Mate on a whaling ship and traveled all over the world. After ten years of living abroad, a strong yearning for home led Manjiro to decide to return to Japan. Given the nation’s closed-door policy, however, this was a life-risking decision, albeit shipwreck being the cause of his departure from Japan.
 
 In January 1851 (by the lunar calendar), Manjiro landed on the coast of Odo, Mabuni-magiri (today’s Odo, Itoman City), in the Kingdom of the Ryukyus. Decision was made to detain him in the Takayasu household (house name Tokujo) in Onaga Village, Tomigusuku-magiri (today’s Onaga, Tomigusuku City).
 
 The confinement in Onaga Village was lenient. Manjiro was allowed to walk about the community freely. Social and curious, Manjiro frequently left the Takayasu household and interacted with the local people. He participated in a tug-of-war here in the nmaii (horse-riding ground) during the Rokugatsu Umachi, an annual harvest festival. Highly competent in linguistic ability, Manjiro is said to have acquired a good understanding of the Okinawan dialect during his six-month stay through interactions with the local people.
 
 In the subsequent years of turbulence between the end of Edo and the early Meiji periods as Japan struggled to transition to an open nation, Manjiro actively served as a bridge between Japan and the United States, conveying the valuable knowledge and technology he acquired in the United States including the culture and the state of affairs of the western nations.
 
 In March 1994, John Manjiro brought together Tomigusuku City and his hometown Tosa-Shimizu City in a sister city agreement.

 

〇参考文献

 豊見城市教育委員会 2014 『ジョン万次郎と翁長高安家』 文化財説明板

豊見城村村史編纂委員会 1964 『豊見城村史』豊見城村役所

豊見城村村史編纂室 1998 『豊見城村史 第九巻 文献資料編』豊見城村役所

長田亮一 1991 『ジョン万次郎物語』 沖縄県ジョン万次郎を語る会



 


文化財説明板の文面


記念碑近くには年表などの説明版も設置されている。


戦前期の高安家。母屋は二棟並べて連結した茅葺きの建物であった。



 

地 図

 

 
 

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作成日 平成29年3月31日
 


 

 

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