2024年_副読本わたしたちの豊見城市_3・4年
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活かつ動どうしらしら調調べるべるこのこの時時じじ間間かんかんのの問問とといい真ま玉だん橋ばしは、何なんのためにつくられたのだろう調しらべよう。橋はしのなかったころの様よう子すを調しらべよう。ウティンダウティンダイリイリおおろくろくままだんばしだんばしからからててかいかんかいかんイシバーシイシバーシじょうじょうちょうちょうきんきんしゅしゅじょうじょうりりシチナンダビラシチナンダビラしょうしょうとくおうとくおうしきしきあとあとりゅうりゅう落平落平ミーガーモーミーガーモー西のシーサー西のシーサー小禄の小禄のいしいし石だたみ石だたみ真玉橋真玉橋空手会館空手会館不不ふふ明明めめいい石火矢橋石火矢橋金城町の金城町のいしいし石だたみ石だたみ首里城首里城識名坂識名坂ななぐうぐう識名宮識名宮尚徳王尚徳王ごご御陵蹟御陵蹟まだ橋はしのかかっていなかったころの国こく場ば川がわは、山やん原ばる船せんが出で入いりしていたほどの広ひろい川かわはばでした。字あざ真ま玉だん橋ばしは、国こく場ば川がわの河か口こうにあたり、豊と見み城ぐすく間ま切ぎり〜垣かきの花はな〜那な覇は港こうを結むすぶ重じゅう要ような通とおり道みちになっていました。しかし、橋はしがないため、島しま尻じりの人ひと々びとは那な覇はなどへの用よう事じは船ふねでわたらなければならず、とても不ふ便べんでした。このように、島しま尻じりと那な覇はを結むすぶ交こう通つうが船ふねにたよらなければならないので、天てん気きのわるい日ひなどは大たい変へんこまっていました。エ 真ま珠だま道みちのルートオ 山やん原ばる船せんウ 昔むかしの国こく場ば川がわ河か口こうのようす橋はしのなかったころの様よう子す245

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